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コロナ渦で子どもの自尊心が欠如している

そもそも日本人は、自尊心が低くなるように教育されていますが、コロナ渦でますます加速しているようです!

 

日本で唯一、マスクやコロナ対策を強制せずに、個人に任せた元小学校の校長先生の記事が素晴らしかったので、以下にシェアさせていただきます。

 


栃木県内の元校長先生、原口真一さんのフェイスブックより

 

 

とんでもない長文ですが・・・このところ、ずっとモヤモヤしながらためていた思いを書き出してみました。理屈っぽくて面倒な内容です、が、一緒にお考えいただければ幸いです。特に、教育者の方に読んでいただけると嬉しいです。

 

 

私が教育者になったのは、子ども達の健全な成長に付き合えることが、自分の人生に最も大きな意味を持たせてくれると思ったからです。

子ども達の生気に満ちた笑顔や、何かに集中しているときの真剣な表情に接すると、自分はどうしたら答えられるか、関われるか、胸が高鳴り、頭の中はフル回転モードになります。

教師となった多くの皆さんが、少なくとも「最初」はそうだったはずです。このコロナ禍の中で、どうか自問自答していただきたいのです。

 

 

教育現場に横たわっている課題は、複雑かつ厳しいものが多く、解決を試みて取り組むには、並大抵ではないエネルギーと覚悟が必要なのは私もこの身で何度も経験してきました。うまくいったことより、失敗し、頓挫・挫折し、周囲に迷惑をかけ、組織(学校)全体にも助けられ・・・と、そんなことの連続でした。

 

 

一方、その重圧や、ときに、いくら頑張っても何の成果にも結果にもつながらないことに虚しさを感じ、中途挫折してしまった方や、精神を病んでしまった方もいらっしゃいます。でも、私が彼等を責める気になんて到底なれないほど、ときに想像を絶する過酷な現実があることも承知しています。

  

 

それでも私が最後まで走り続けてこられたのは、周囲の方々(先輩教師、同僚、保護者や地域の方々)の理解や協力があったことはもちろんですが、やはり、最も力になっていたのは、子ども達がより強く生きようとして「もがく姿」や、よりよく成長しようとして「悩む姿」、そして、何かをなしとげたとき、あるいは感動する場面に出会ったときに見せる「輝く表情」や「笑顔」・・・そんなもののすぐ横で共に過ごせる日々だったことは間違いありません。

 

 

さて、教師として勤めた最後の数年間は、日本の教育が大きな変革に取り組み始めた時期と重なっています。

「生きる力」を養うために、「知識」ではなく、いかにして「知恵」を磨くか。

問題解決の先に目指すものは「答え」ではなく(もちろんそれも必要ですが)、「解決に向けての過程がどうだったか」ということ・・・「答え」よりも「解(最適解)」を探求すること。多くの物事に接する中で、いかにして「問い(疑問)」を探すことができるか・・・。

そのために掲げられたのが、「主体的・対話的で深い学び(最初の頃「アクティブラーニング」と呼ばれていたものです)」を実践していくことでした。

 

 

ここで注目すべきは、この「主体的」の後に「・」が入っていることです。

つまり、「主体的」は、その後の文言「対話的で深い学び(多くの人達と議論をしながら学びを深めていく)」と並列のものではなく、それらの基盤として持つべき態度ということです。

私も、この考えに疑問を持ったことはありませんし、今も重要な視点だと思っています。

その達成のために、現職時代の私がどれだけ貢献できたかとなると、はなはだ心もとないのは確か

 

 

ですが、目指す方向を見失ったことはないとの自負はあります。

ただ、この主体的というのが日本人には最も苦手なことで、小中学生も例外ではありません。

原因の一つは「自己肯定感の低さ」だと考えられてきました。私も全く同感です。何をやるにしても、まずは自分が自分であることを肯定できなければ、先には進めませんから。

故に、「日本の子ども達の自己肯定感をいかにして高めるか」も、教育界が目指してきた大きな課題のひとつだったはずです。

 

 

そして、「対話的で深い学び」を進める上で、よく示されていたことが「『科学的』で『論理的』に思考すること」でした。この点も自分なりに納得して取り組んできたとの自負はあります。

現場でも、「エビデンスに沿って(科学的根拠によって)」とか「クリティカルシンキング(感情や主観に流されず、批判的視点も含めて考える)で」とか「ロジカルシンキング(論理的思考)を」という言葉が、日常的に飛び交っていました。

 私自身は、「何でも横文字に~」という辺りに和感もありましたが、まあ、内容的にはもっともだと思ってやってきました。

 

 

さて、ここからは今の学校の現状です。

感染症対策に関する数々の疑問です。

念のために・・・皆さんが同じ考えになることを目指して書いているのではありません。

ただ、皆さんも、ぜひ「科学的根拠」と向き合いながら、「論理的」に思考することを、私と一緒に(対話的に)に実戦していただけると嬉しいと思っています。

「対立」と「批判」がこれほどまでに世の中の空気を満たしている時代は、そうはないでしょうから。

 そして最後は、自身の考え(主体的)で、現時点での「解」を見つけていただければ幸いです。

 

 

もちろん、その解も、状況が変わったときは思い切ってアップデートされるべきですし、その場合も、ぜひ「対話的」に「より深い学び」を実現していただければ・・・と、私自身も肝に銘じています!

そこで・・・。

 

 

感染症が問題になった当初から、ずっと言われ続けていること・・・。

「自分は感染していると思って(誰かに移すかもしれないと思って)他者に接しなさい」

一見すると、周囲を思いやった素晴らしい考え方のように聞こえますが、ちょっと考えれば「自分は他人の健康を脅かすかもしれない存在だと思え・・・お前は汚れているかもしれないんだ(言葉が悪くて申し訳ありません)」という考えと同義になり得ます。

また裏を返せば「他人を見たら全員が感染者だと思いなさい」という考え方にも直結します。

今の学校現場では、「自己否定」と「疑心暗鬼」の心を植え付ける取り組みが、日々間断なく続けられているように思えてなりません。そして、年齢が低ければ低いほど、それが心に与えるダメージは甚大で、より深く植え続けられてしまうに違いない、との痛切な危機感を(私は)持ってしまいます。今の若年層には、取り返しのつかない傷を残してしまっているのでは・・・と。

 

 

昨年度のことですが、ある幼稚園児童が鼻水をたらしているときに言った言葉に胸が締め付けられました。

(自分のことを指して) 〇〇ちゃんはね、今日は幼稚園に行けないの・・・〇〇ちゃんが行くとみんながこわがるから・・・」

みなさんにはこの声がどう聞こえるでしょうか。(私には)これが子ども達の現実だと思えてなりません。

 

 

また、

「感染しない・させない」

これを通せば、その根底には「感染=悪」が定着します。

私のところでも、自治体では「悪いのは人間ではなくてウイルス」・・・「感染者への誹謗中傷や差別はやめましょう」との注意喚起がなされていますが、「感染しない・させない」に軸足がある以上、「感染した人=ちゃんと対策をしなかっただらしない人・・・危険な人」「感染させた人=配慮が足りなかったいいかげんな人・・・悪い人」と思われる危険性が常について回るのは当然の成り行きです。

ですから、学校や親も常にビクビクしながら、過剰の上に過剰な対策を強いられることになります。

皆が「魔女裁判で自分が魔女にされること」を恐れているように見えます。

 

 

ですが、何より見落としてはならないのが、社会の末端で、静かに・・・しかし心の奥では確かに、悲痛な叫び声を上げ続けている子どもがいるということです。しかも、その多くが「社会のために仕方がないこと」と思い込んで頑張らされています。主体的に考えることなんて許されません。社会全体の求めなのですから。

教育者の皆さんには、確実にその叫びが聞こえているはずです。しかし、どうにもできないのも理解できます。皆さんも犠牲者でしょう。何かあったら、学校組織が魔女裁判の中心に置かれてしまうのですから。

 

 

ですが、だからといって子ども達を犠牲することがベストな選択ではないだろうと、(私は)そう思ってやってきました。

この感染症のことも、科学的根拠をもとに論理的に判断し、何が必要で、何がそこまで必要ないのかを考えながら付き合っていってほしい、と、子ども達にも常に投げかけてきました。

もちろん、このウイルスが驚異的な致死率を示しているものなら、何が何でも抑え込む対策をしていかなければならないでしょう。どんなに苦しかろうが暑い中でもマスクは着用し続け、友達に近づけなくても我慢し、有意義な行事がなくなっても、何年も努力を積み重ねてきた成果を発揮しようと待ちに待っていた大会がなくなっても、やむを得ないことなんだから、あきらめるしかない・・・と、成長するチャンスも、心を鍛える機会も今は全て後回しにしてでも、徹底的に感染症を抑え込む道を選ばければならないでしょう。

 

 

しかし、日本でこのウイルスが問題になってから1年半が過ぎた現時点で、日本全国を見渡しても、10代では「死亡者、重症者」ともに皆無です。

なぜなら、

 

① 新型コロナは受容体「ACE2」がなければ感染できない。

② 子どもは、この「ACE2」をほとんど持っていない。

③ 故に子どもはほぼ感染しない。

があるからです。

多くの意見や考え方があって、コロナに関してはまったく逆の発言(「ワクチンは安全」という意見と「ワクチンは危険」という意見等)を述べる方が多々おられますが、少なくともこのACE2と感染性について全く逆の意見を言っている方を(少なくとも私は)見たことがありません。

ただ、「自分は重症しなくても家族や知り合いに感染させてしまう危険性があるから」を訴えている専門家が多数おられます。(現職時代には)私も一番危惧していた点です。しかし、これは科学的でないのでは、と今はそう考えています。

なぜなら

④ 感染は、ある程度まとまった量のウイルスが一度に曝露(喉粘膜とかに付着)することが必要条件。

⑤ ウイルスが体内で増殖するには、感染する(ウイルスが人体細胞内に入りこむ)必要がある。

   ・・・曝露(喉粘膜とかに付着しただけ)では増殖できないから。

この点も、真逆の意見(数個のウイルスで感染してしまう、曝露しただけでウイルスが増殖する)を言っている専門家を(少なくとも私は)見たことがありません。

 

 

そこで、もう一度①~③を見た上で④と⑤を勘案すれば、

子どもはほとんど感染しない → 体内でウイルスは増やせない → 他者に移せるほど多くのウイルスを(飛沫などで)放出する可能性は低い  感染源にはならない、となるのが普通の考え方ではないでしょうか。

「子どもが他者に感染させてしまう可能性」が語られる背景には、PCR検査では感染と曝露を判別できないから、があることは否めません。

子どもが感染しにくい科学的根拠はお話した通りですが、何よりも、1年半経って日本全国を見ても死者も重症者も出ていない状況を見れば、この事実は、科学を裏付けるにも十分だと思っています。

 

 

また、子どもが高齢者に感染させ、その高齢者が重篤になった例も出ていないはずで、これも科学を裏付けてくれます。

それどころか、子どものいる家庭で生活している高齢者の方が、感染率も重症化率も低いという統計資料も多くの国で公開されています。子どもは免疫機能が未発達なので、日頃から様々なウイルスや細菌を(家庭に)持ち込んでいる。そのため、同居の高齢者も日常的に多くの細菌類に晒されている結果となり、免疫機能がすたれずにすんでいるのでは、というのですが、理屈は理屈として、統計的事実はあらゆる科学を越えた証拠になり得るはずです。

 

 

少ないウイルスでは感染はできませんが、曝露者が曝露者を生むことは可能なので、陽性判定を受けた子どもがいたときに近くの高齢者が検査を受けたとすると、その方も(単なる曝露でも)陽性判定が出てしまう可能性があります。しかし、曝露で症状が重篤になることはありません。

これも、PCRが曝露と感染を区別できない弊害だと思っています。

 

 

長々と書きましたが、私は「対策なんかやめてしまえ」と言っているのではありません。

必要な対策と教育の本質との狭間で、多くのリスクと必要性とをちゃんと見比べながら、何をどうするかを考えていくべきだと思っているだけです。

いかがでしょうか、今のように、感染するリスクも感染させるリスクも限りなくゼロに近い小さな子ども達にまで、あらゆる場面で自己肯定感を打ち砕くようなマスク着用を強要し、友達に触れることも、近くで話すことも許さず、と、今の教育現場のやり方は「落としどころが違うんでは」と思ってしまうのです。

今、子ども達にかけてあげなくてはならない言葉は、「感染しない、させない」ではなく、「感染しても大丈夫だよ」ではないか・・・「人には罪はない、悪いのはウイルス」っていうのは、そういうことではないでしょうか。これほどまで弱毒化した、多くの曝露例を含む陽性率ばかりが高くなっているウイルスなんて、それこそ「どこでどう移るかわからない」のですから。

 

 

行事という行事を犠牲にし、ギスギスした人間関係を作り上げることにつながるような、かくも厳しい諸対策を講じなければならないほど、このウイルスは危険なのでしょうか。

テレビを見れば、バラエティー番組はもちろん、散々「感染対策を万全に・・・みんな油断しているだろう」と主張しているワイドショーでも、形ばかりのアクリル板を設置してはいますが、明らかに密室のスタジオで大した距離もとらず、皆がノーマスクでワイワイガヤガヤやっているのを子ども達も見ています。

普通に見て、どちらがゆるい対策でしょうか?

学校でははるかに厳しい条件のクリアーが求められています。

「子どもは考えるな、言われた通りやってればいいんだ」と、私達大人が日々言い続けながら・・・です。

 

 

マスコミに頻出している専門家の方々も、国や自治体の政治家の方達の多くも、感染症に対してゼロリスクしか求めていない人達には、こうした「子ども達の叫び」は届いていないのでしょう。でなければ、かくもバランスを欠いた対策を推し進められるはずがないと思うのです・・・。

 

 

心の成長には「時期」があります。

今やらなければならないことは、よほどのことがない限り後回しにしてはいけないはすです。今を、その「よほどのこと」にしてしまっていいのか・・・数年後、数十年後に、他ならぬ「今の子ども達」の身に「大きなツケ」が回ってきても、そうした方々が責任を取ってくれるわけではありません。

今の乳幼児が、口のない人の顔ばかり描くようになっても、何かを感じ、共に悲しんでくれるとは思えません。

きっと、「社会のニーズに答えただけ」と言っておしまいではないでしょうか。

 

 

 

保護者や教育者の方々、そして子どもに関わるありとあらゆる大人達が・・・誰がなんと言おうと、目の前の子ども達を最後に守れる(最後の砦)は自分なんだということを、いつも心に持って接していければ・・・一番近くで「子ども達の悲痛な心の叫び」を聞いているのは、私達なのですから。

 

 

2021年8月5日

 

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